少年と少女の、奇妙な同居生活が始まった。










「蓮、あれは何?」
「あれは本屋だ」
「あ、あれは?」
「スーパー」
「あの大きな斜めのは?」
「公園の滑り台だ」



「あ、蓮!」



「………今度は何だ」








色々と生活物資が切れていることに気付いた蓮は、を連れて買い物をすることにした。
本当は彼女を連れて行くつもりはなかったのだが、外出するとなったときに彼女が酷く興味を示したので、仕方なく同行させたのだ。
しかし―――
今蓮は、少しだけ後悔していた。

(こいつ……本当に何も知らないのか)

商店街を通ったのがいけなかったのか。
は何かが視界に飛び込んでくるたびに蓮の服を引っ張り、逐一あれは何かと尋ねた。
誰でも知っているようなものでも。
まるで初めて外に出た子供のように。



初めて…?



そういえば彼女は最初、「生まれたばかり」だと自分を評した。
彼女の言動。行動。
……本当だとでもいうのか。

(いや…まさか、な)

どう考えてもこの外見で「生まれたばかり」は有り得ない。

彼女の言葉はいまだ謎のままだ。



「蓮、蓮! あれ」
「あれはだな―――」

相変わらずは、何かがあるとすぐに袖を引っ張ってくる。
なんだか、まるでペットの散歩をしているような気になった。

だが、彼女の表情―――珍しそうに、好奇心で一杯になった顔を見ていると、何も言えなくなる。
蓮は内心でため息をついた。
ふと、後ろで微かに笑う気配がした。

「…………何だ馬孫」
『い、いいえ何でもありません! 失礼致しました!』

いつもだったら食って掛かるところだが、何故だか今日はムッとすることもなかった。
感情が波立たない。
……おかしな気分だった。
疲れているのかもしれない。










『…坊ちゃまは、随分お変わりになられましたな』

馬孫は主に聞こえぬよう、そっと呟いた。
案の定蓮は気付かず、の質問に答えている。

が同居するようになって、数日。
主の変化は火を見るより明らかだった。

纏う雰囲気も、顔つきも、言葉の端々まで。
数日前まではあれだけ棘や毒を孕んでいたのに、今では見る影もない。
勿論、トレーニング中にふと漏れる麻倉葉のこととなると話は別だが。

少なくとも、彼女――が傍にいるときは。

(不思議な娘だ…)

半ば父親のような気分で、馬孫は二人を眺めていた。




















ざわめきが大きくなる。
もうすぐ夕餉の時間だ。それに合わせて、人の通りも多くなる。

「―――?」

不意に何かを感じて、は振り向いた。
この大通りから外れた、狭い路地の向こう―――何か、ある?

「………」
『あ、殿!?』

吸い寄せられるように、はふらりと蓮から離れた。
予想もしなかった行動と意外な素早さに、気付いた馬孫は慌てて追いかけた。
蓮に知らせる暇もなかった。










「くそ、混んで来たな。おい、絶対に離れるな、よ…って」

蓮は人混みを掻き分けながら後ろを振り向いて。
ようやくそこにあるべき姿が見えないことに気付き、思わず絶句した。

「あの馬鹿ッ……言った傍から何処へ行った!」

慌てて周りを見回すが、ごった返す商店街でそう簡単に見つけられる筈もなく。

「馬孫!」

持ち霊を呼ぶ。
しかし、その返答もない。
馬孫までもが消えてしまっていた。

ちっと蓮は舌打ちする。
大方馬孫も、の傍についているのだろうが…

「あの馬鹿どもが…」

蓮は頭が痛くなる感覚を覚えながら、もと来た道を引き返した。










殿、殿! お戻り下さいませ!』

裏路地をどんどん進んでいくに、馬孫は懸命に呼びかけるが応答はない。
今頃、蓮は烈火の如く怒っているに違いない。
早く戻らなければ。

「………」

だがしかし、の足は止まることを知らない。
まるで最初から目的地をわかっているかのように、その足取りに躊躇いはない。
薄暗い迷路のような路地を、一直線に進んでいく。

(一体何処へ行くつもりなのか…)

仕方なく馬孫はついていく。
と、唐突に。
視界が開けた。



そこは広い道路だった。
どうやら隣の大通りに出てしまったらしい。

『ここは―――あ、殿!』

はきょろきょろと辺りを見回すと、ようやく目当ての場所を見つけたのか走り出す。
そこには―――

「いらっしゃい!」

一人の青年が、露天商を営んでいた。
長い黒髪にサングラスをかけ、ネイティブアメリカンのような装飾具をつけている。
売っている品物もそれに倣った物ばかりだ。
ターコイズやオニキス、羽を象ったアクセサリー。

どうやら、が捜していたのはこの青年らしい。
しかし―――何故?

訝しがる馬孫をよそに、はその青年の傍へ駆け寄った。

「どうしたんだい、お嬢さん」

青年は気さくにに話しかける。
サングラスの奥の双眸は、思いもかけず優しい。

「何をお探しかな? コレなんか、君に似合うと思うけど」

しかしは差し出されたアクセサリーを受け取らず、青年の手にそっと触れた。
いきなりのことに、当然ながら青年が驚いた顔をする。
すると、

「あなた、何て言うの? 名前」
「名前? ………シルバ、だが、ええと」

いやあこんな可愛い子にナンパされるなんて初めてだよ。
そう誤魔化すように笑いながら告げるが、シルバの表情にはいまだ戸惑いが滲んでいた。

しかしは意に介さない。
そして。

「シルバ」

その瞬間、
確かに 空間が変わった 。

のたった一声が合図だったかのように。
それはひどく単調で、真摯で、淡々としていて―――それでいて、絶対的な静謐を孕んだ空気。
まるで世界そのものがしんと鎮まってしまいそうなほど。
皮膜一枚隔てた向こうは変わらない日常が流れているというのに。
ただこの一角だけが、
異世界に変調した。

思わず息を呑むシルバの額に、そっと顔を寄せる。
そして。

「―――――」

何がしか小さく呟いて。
啄ばむように、口付ける。


これには見ていた馬孫も呆気にとられた。


『な―――――ななななな……殿!?』


はシルバから離れると、同じく呆然としているシルバに、ふわりと笑いかけた。
その瞬間、日常世界に空間が戻る。

「きみ、は―――」

「さよなら」

何かを言いかけたシルバを、しかしはぺこりと一礼すると、またもと来た裏路地へと駆け出した。
慌てて馬孫も必死で追いかける。
裏路地に飛び込む直前…
そっと後ろを振り返ってみると、尚も呆然と佇む青年の姿がちらりと見えた。







「あの子は――……」

一人になったシルバは、少女に握られていた手を凝視した。
そう。
彼女は確かに言ったのだ。

「あなたに、グレートスピリッツの御加護が、あらんことを」

まさか、あの娘は。




















「くそ、見つからん…」

蓮は毒づいた。
既に夕餉の時刻は過ぎ、混雑のピークは終わろうとしていた。
徐々に人通りもまばらになってくる。

だが、依然としてあの少女の姿も、持ち霊の気配も見当たらない。

夕焼けがゆっくりと後退していく。夜の帳が降りていく。
空には、既に幾つかの星が見えた。
僅かに肌寒い。









「蓮!」







バッと蓮は振り向いた。
そこには此方へ駆けると、その後ろを必死に追う馬孫の姿。

―――いた。

「蓮、」
「っ馬鹿者! 何処へ行っていたのだ!」

小走りに駆け寄ってきたの呼びかけを、蓮の叱責が遮った。
びく、と硬直する

「この俺がどれだけ捜したと思っている!? 余計な手間をかけさせるな!」
「……あ…」
「馬孫お前もだ! 何故すぐに俺に知らせなかった!」
『も、申し訳ありません坊ちゃま…』
「全く、…行くぞ」

そういうと、蓮はくるりと背を向けて歩き出した。
そのまま数歩進んで―――足を止める。
ついて来ると思った足音が聞こえない。
振り返る。

「………」

蓮は立ち竦むの元へ戻った。

「――
「…………蓮」
「何だ」
「ごめんなさい…」

蓮は小さく息をついた。
項垂れるの首筋が見える。
細い。折れそうなくらいに。

もうひとつ、ため息をついて。

くしゃり、と。
その小さな頭に、手をやった。
驚いたが顔を上げた。

「もうはぐれるな」
「はい…」

がこくんと頷いたのを確認すると、蓮はその手を取った。
嗚呼小さい掌だ、と思った。

「帰るぞ」
「…うん」

そこでやっと。
がおずおずと笑みを浮かべた。





そのまま蓮は、の手を引いて帰った。
何故だろう。
不思議と恥ずかしさは感じなかった。
ただその手が壊れそうなくらいに華奢なのと、それでいて仄かな体温を宿すあたたかさに

このままこんな時間が続けばいい、とふと思った。














時は巡る。
とどまることを知らず。

それはゆっくりと。
だけど確実に。

時は巡る。巡ってゆく。

すべてはまだ、はじまったばかり。